今どんな業界にも求められているのは、雷のような力強さと電光石火のスピードです。そのことを端的に表現でき、私の苗字の「稲」と強力なサポーターである「妻」が含まれてもいることから命名しました。とはいえ、私自身が雷オヤジというわけではありません(笑)。
「起業宣言! この壮大な転換期へ、自らのビジネスを創造すべく船出する。そこには、ベンチャー・中小企業が最高の顧客価値を創造し社会に貢献しようとする姿がある。その企業達の強力なビジネスサポーターとなるため、Lightning & Companyを起業する。」
夏は海・山・川、冬は雪、富山で育った日々
記念すべき初投稿となる今回は、私の生い立ちからお話したいと思います。
終戦の翌年の1946(昭和21)年、米どころ・富山県の砺波(となみ)平野で収穫されました。
庄川の流域に広がる砺波平野は「散居村」と呼ばれ、防風林に囲まれた家屋が数十メートルの間隔を置いて点在する、まぁのどかな風景が広がるところです。
子供の頃の遊びといえば、やはり夏と冬のことが思い出されますね。夏はもっぱら昆虫採集の森探検や川遊び。昔は川の水量が多くて、北アルプスの雪解け水できれいだから、ウグイ、ニジマス、それにアユ…。川魚がいっぱい捕れたんですよ。手でつかんだり、自転車のスポークを焼いてつぶしてヤスにして、急流の中のスキューバダイビング。今から考えるとけっこう危険な遊びをしてましたねぇ(笑)。
富山は雪国ですから、冬になればスキーです。
家の目の前に雪がいっぱい積もるので、小学校入る前から教わらなくてもソリとかスキーとかで遊ぶんですよ。
凍った川面の上だったり一面銀世界に覆われた丘だったり、夏場には行けなかったようなところまで歩いていけたりもするんですね。
夕日に輝く白銀の世界、そりゃぁすごい景色です。
もうひとつの故郷
「出身は?」と聞かれれば、「富山です」と答えるんですが、実際はちょっと違います。
天然記念物ウミネコの繁殖地・青森の蕪島(かぶしま)にて。中央が私です。
もともと私の両親は二人とも青森の人間なんです。
青森の軍隊で知り合った母と結婚、終戦翌年に生まれた私をおぶって富山に移住しました。父は少年期を富山で過ごし、父の思い出深い土地だったのです。
だから、親戚はみんな青森にいるんです。
夏休みになると、母の実家がある青森の野辺地へ行くのが私の楽しい恒例行事でした。当時は富山から青森まで、汽車で24時間ぐらいかかったんですよ(笑)。日本海が続く車窓、せみの声、間近に迫る森、ゆれる月見草群、ながれる虫の声、飽きず眺めていたこと。いつまでも残っているシーンです。
下北半島の付け根野辺地、そこでもやっぱり遊び相手は自然。
海に潜ってアワビを捕ったり、山へ野宿しに行ったりと、平野の砺波では味わえないダイナミックな遊びをしたものです。
その印象がとても強いので、青森もまた、私の故郷のひとつだと思っています。
今でもリンゴの味などにはうるさいですよ(笑)。
皆さんも富山や青森へ訪れる機会があれば、ぜひご一報ください。
とっておきの景色や味覚をお教えします(笑)。
大自然に育まれたもの
庄川で遊んだ中学生当時の一枚。右の彼は私の幼馴染みで、今でも親交があります。
自分で言うのもなんですが、私は小学・中学と町の学校ではだいたいトップの成績だったんです。
でも一生懸命勉強した思い出なんかなくて(笑)、少年時代というと大自然相手に遊んだという思い出ばかりですね。友達もそういう奴が多かった。
理論よりも情で動く、右脳型の人間なんですよ(笑)。
で、そういう少年時代に育まれた情緒ある人間性っていうものは、現在にもつながっていると思います。
私がこれから始めようとしているコンサルタントという仕事は、お客様が望まれることについて十分な知識がないといけないのはもちろんですが、実際に仕事をする上では、相手の人となり、その人からにじみ出る意見なり助言なりっていうのがあって、初めてその人の話を聞いていただけるようになるんじゃないでしょうか。
テクニックだけしゃべっても、魂がこもってないと信頼関係は築けません。
中には、私の人間性っていうのはどうでもよくて、もっとビジネスの話がしたいとおっしゃるお客様もいらっしゃるでしょう。
でも、信頼関係を築いて、本当によい仕事をするためには、まず一人の人間として尊重しあって接するということ。それに尽きると思います。
そして人間性を磨くためには、自然と親しむことも重要だし、友人を大切にすることも重要だし。スポーツや恋愛に打ち込んだりね。ガリ勉じゃダメだと思うのです。
私がスポーツ、恋愛に打ち込んだのはもうちょっと先の話ですが。
詳しくは次回の学生時代編で…。
県下一の進学校で感じたこと
起業にあたり、まずは私の半生を振り返ってみようという、問わず語りの「自叙伝」コーナーです(笑)。
2回目は、高校・大学時代を中心にお話ししたいと思います。
前回の少年時代編でも触れた通り、大自然に恵まれた環境に育った私は小さい頃から体を動かすことが大好きでした。
中学生の頃所属していたバスケットボール部では、県大会にも出場しているんですよ。
一方で、母親が当時としては比較的教育熱心だったこともあって、町の小学校・中学校ではだいたい学年トップの成績でした。
だから高校に進学する際は、地元の県立高ではなく、高岡市にある高岡高校という県内トップの進学校に進学しました。
自慢に聞こえるかもしれませんが、そんな成績を修めながらもそれほど勉強に苦心したということはありませんでした。
ところが、高校は違ったのです。“できる奴”が集っていたんですね。
高校に入った途端に、今まで1番だったのが50番ぐらいになってびっくりしたのを覚えています。
当時の高岡高校は東大・京大にそれぞれ20人ぐらいの合格者を出していたと思います。
そんな環境を通して、私なりに強く感じたことがふたつあります。
まずひとつは、自分はやればできるということ。
最初のテストで衝撃を受けた私ですが、その後の努力で上位の成績をとれるようになりました。
「努力すればそれなりの結果は残せるんだな」と感じたのです。
また一方で、才能の違いというものが確かにあるということ。
なかにはスポーツもやりながら東大に入る奴もいるんです。
これはもう努力などではどうすることもできない違いがあるな、と。
そう思うようになってからは、表面的な結果に一喜一憂することはあまりなくなりました。
大事なのは自分の実力を知る、ということでしょうか。
仕事の上でも、まずは自社、自分の実力を知ることです。
残念ながら、誰もがスーパースターになれるわけじゃないけれど、努力を続けていれば、その力は必ず必要とされる時がきます。
私自身そんなご縁のなかで仕事をしていきたいと思っています。
趣味、出会い、就職…。大学時代の思い出
学友と兼六園にて。なぜ私(右)だけスーツ姿なんでしょう。思い出せません(笑)
高校生活も終盤を迎えると、進学先を決めなくてはなりません。
物理や数学が好きだった私は、「まぁ工学部だろうな。でも今の成績だと京大は厳しいか。阪大ならどうか」と考えていました。
ところが、当時の担任が浪人はさせない方針の人で、結局現役合格が確実な金沢大学に入学することに。
もっと上を目指せたという気負いから、入学当初は正直不満でしたね。
そんな思いもあってか、私は次第に勉強以外のことに熱中するように(笑)。
高校時代は止めていたバスケットをまた始めたり、山登りに熱中したり。
元社会人や多浪生など、大学というところには本当にいろんな人がいて、そういう人たちとの出会いもおもしろかったですね。
妻との交際は大学3年生の頃から。まだ学生の頃、二人で立山を登った時の様子です
この稲妻メールの“妻”を担う人とも大学時代に出会いました。
実は、私は大学を出てすぐ、社会人1年目で結婚しているんですが、大学の卒業式の直前に彼女の両親に会いにいきました。
「社会人になったら、彼女を必ず嫁にもらいますから」と。
人生で一番緊張した思い出です(笑)。
そんな事情で、就職の問題はもう私一人だけの話ではありませんでした。
しかし、当時の、とくに地方の理系大学生というのは就職活動にそれほど熱心に取り組むものではなかったのです。
求人がくる企業に教授から推薦してもらって、その推薦が内々定のようなものなのでした。
きている求人の中から一番給料のよいところにしてやろうと思って、決めたのが大阪にある外資系の医療向け営業職でした。
今でいうMRですね。
それからいろいろ職・住ともに変わっていくのですが、その詳細はまた後日。
衝撃的だった言葉
学生時代、衝撃的だったひと言があります。
高校2年の時だったでしょうか。
恒例の青森旅行の折、進路について親戚たちと交わした話の中で、母方の弘前大教授をしていたおじから投げかけられたひと言です。
「晃さんは、将来何をしたいの?」
ほかの人にとっては日常の何気ない会話のひとつかもしれません。
しかし私はその言葉にすごくショックを受けたのです。
それは、私は将来のことなんて何ひとつ考えていなかった、ということに気づかされたからです。
小さい頃からそのことをよく考えていたら、全く違った人生になっていたかもしれません。
私も子を持つ親になった今、その言葉を思い返す度、教育熱心だった母親が、もしその場所に居合わせていたら、いったいどんな顔をしたことだろうと思うのです。
私の子どもや就職活動で面接する学生たちには、意識して聞くようにしていました。
「あなたは、将来何をしたいの?」
新人、新婚、新居。関西での新生活つれづれ。
世の中の動きや人間同士の関わりを肌で感じたい
私のこれまでの歩みを紹介する「自叙伝」コーナー。
第3回は「社会人編・上」として、私に何度か訪れた人生の転機をお話しします。
大学で工学を勉強していた私ですが、
大学院や専門職、研究職という選択肢は初めから考えていませんでした。
世の中の動きや人間同士の関わりを肌で感じたいという想いが強かったからです。
前回にもお話しした、伯父の衝撃的な言葉も影響していると思います。
そんな理由で最初に志望したのは商社の営業職でした。
しかし当時、地方大学の工学部にきていた商社からの求人は1社1枠だけ。
その1枠は成績の良かったヤツがもっていき(笑)、最終的に私が内定したのは、大阪にある外資系の医療向け営業職でした。
社会人になりたての頃。あまりスーツ姿で写っているものがありませんでしたが(笑)
その会社を選んだのは候補の中で一番給料が高かったからでしたが、外資系企業での医師相手の営業は、自分が持っていた営業職のイメージと隔たりがありました。
閉鎖的な感じがして、肌に合わなかったというのが正直なところです。
そう言ってしまうと、この会社がすべて悪いみたいに聞こえてしまうかもしれませんが、もちろんそうではありません。
その頃は余裕がなくて周りが見えてなかったというのもあります。
先輩で営業成績が優秀な人がいたのですが、その人はいつも優秀でした。
何が違うかというと、彼はチームで、より戦略的に動いていたのです。
結局、私は3年でこの会社を辞めたのですが、その戦略性を自分の中に吸収できていれば、もっと違った結果になっていたと思います。
今から振り返ると、新入当時の私はちょっととんがっていたのかな。
社会人の具体的なイメージも規範もないままに、息巻いて大阪に来ていましたから(笑)。
それこそ夜討ち朝駆けの猛烈サラリーマンでしたよ
もっと自分の力が発揮できる営業職を、ということで学生時代にお会世話になった大学教授を通じて紹介してもらったのが、産業排水や下水処理、浄水処理に関わる在阪のプラントメーカー。
医療の世界とは打って変わっって工学部での知識が活かせる分野でした。
例えば、産業排水をきれいな水に処理するためには、何を除去しなきゃいけないのか、どの様な処理方法を採ればいいのかなど、まず工学博士の研究所長に学問的意見を仰ぐのですが、実際の廃水処理現場では学問通りに行かないことが当たり前なのです。
そこで現場にも足を運んで、何度も分析し本当に処理効果のある方法を突き詰める。
そしてその方法が特定されれば、初めて処理工程が明らかになるわけですが、完全に処理工程を確定するには高額な設備と長い時間がかかります。
しかもその効果は廃水によって一様ではないのです。
さらに高度処理と言われる三次処理にはとても企業が処理方法を探る投資はできません。
そこで、三次処理水を受け入れる河川、湖沼側の建設省へ共同テストプロジェクトを持ちかけたりしました。
まさに猛烈サラリーマンだった頃は、同僚との仲もよかったですね。よく働き、よく遊びました
学問、現場、企業や官公庁、あらゆる人間関係を連携させながら、大きなプロジェクトをビジネスにしていく。
時には十数億円規模のプロジェクトを成功させたりもしました。
ようやく自分が描いていた仕事に出会えたという想いでした。
どんなにいい技術や物があっても、それだけではビジネスになりません。
ビジネスとして成立する為には知識や技術を一人で貯めこむのではなく、関わるすべての人と共有することが大切だと思います。
そして、その共有部分を担うことこそ、営業マンの役割ではないでしょうか。
だから、親睦を深められる夜から朝にかけてはまさに営業の時間ですよ。
当時の私はそれこそ夜討ち朝駆けの猛烈サラリーマンでした(笑)。
硬軟両面で、お手本になる商社出身のボスが何人もいましたから(笑)。
プラントメーカーに入社して10年が経ち、営業マンとしてまさにこれからという頃、またしても転機が訪れます。
なんと、親会社が吸収合併されてしまったのです。
新たに親会社となったのが重工業の某製造会社でした。
これまで営業部門主導だった会社は製造部門主導に様変わり。
営業マンの意見は次第に通りにくくなり、私も不満が募っていきました。
ふてくされる私を見かねたのか、妻がとある求人広告を見つけてきました。
その求人先こそ、三井リース事業株式会社だったのです。
当時の私は自信にみなぎっていました。
営業マンの役割・ノウハウはこうだ、という確信を持っていましたから。
三井リース事業応募時に書いた文章は、今読み返すと恥ずかしくなるほど生意気なことを書いたと思います(笑)。
それが功を奏したのか、100人以上の応募者数の中を勝ち抜いて、結果は見事採用。私がちょうど35歳を迎えた頃の話です。
営業ノウハウで自信を持って三井リース事業へ
私の半生を振り返る「自叙伝」コーナーもいよいよ最終回です。
「社会人時代編・上」に続き三井リース事業で定年までサラリーマンとしての仕事を全うしこうして起業するに至った足跡をお話しします。
二度の転職を経て、三井リース事業の敷居を跨いだのが35歳の時。
不安や心配と言ったネガティブな心情は全く感じていませんでした。
それまで勤めていたプラントメーカーでの10年間で、結果を残す営業ノウハウを会得したという確信があったからです。
前回にもお話した通りビジネスというのは、物や技術だけでなく、営業が積極的にかかわって人と人とを結びつけることで成り立ちます。
三井リース事業での私の一つのエピソードをご紹介しましょう。
新規顧客を開拓する際の話です。
まず開拓したいと思ったエリアで新規開拓を担当している三井銀行(現三井住友銀行)の得意先係の銀行マンに連絡しました。
彼らの営業活動に同行させてもらって、そのエリアの数多くの企業の人を紹介してもらったのです。
この時に大事なのは、決して自分を、リースを売り込まないことです。
企業に売り上げを飛躍的に伸ばそうと、最新の設備を検討していた時のことですが、リースの案内ではなく、企業のニーズをよく聞いて、後日すぐ機械のパンフレットを持ち込みました。
ここでは商社である三井物産に協力してもらいます。
そして機械の優位性に納得してもらい導入が決まり、快くリース契約が成立したのです。
そればかりか、リース料は三井銀行の分割手形にしてほしいとお願いし、三井銀行の口座も作ってもらえ、機械は三井物産から買ってもらうことになり、一石二鳥三鳥でした。
うまく契約したい時こそ、考えなければならないのは自分じゃなく、相手のメリット、価値提供なんですね。人を大切にする。
ネットワークを大切にするということです。
これはコンサルティングの仕事にも通ずるところがあると思います。
今も変わらぬ“攻め”の姿勢
営業マンとして自信満々だった私は、そのノウハウをどんどん生かそうとするのですが、冬至の三井リース事業の営業手法は少々勝手が違いました。
まだリースの必要性がそれほど認知されていない時代だったので、営業も“三井”という看板だけで仕事していたんですね。
いわゆる「待ちの営業」でした。
私は「待ってちゃダメだ。こっちから行かなきゃ」という姿勢でしたから、お金を貸すのにこちらからそんな!と思う人から見ると異端だったと思いますよ(笑)
ただ、職場が保守的立ったのは理由がありました。
リース事業と言うのは物の貸し借りと言うことですが、お金の代わりに物を貸すという実態は金融に近いんです。
だから、新規顧客には慎重にならざるを得ません。
5年契約の相手が2年で破綻すれば設備費用の損害を被るのはこちら側ですからね。数パーセントの利益などあっという間に飛んでしまいます。
3人でスタートした初代京都支店長時代。他の2人は現在副本部長と、部長に成長。今も家族ぐるみの付き合いです
契約の成立がすなわち営業の成功ではないというのは、初めての経験でした。
思えば、攻めてばかりの人生でしたから(笑)
リスクが現実のものとなって失敗したことも何度かありました。
でも、敢えて言わせてもらえれば、新しい事業にリスクはつきものです。
100%失敗しない人っていうのは、つまりは守ってばかりの人ということではないでしょうか。
私はその後も、ベンチャー企業やプラントリースや不動産リースなど、これまでリースの対象になっていなかったものに取り組んでいきました。
営業部長、支店長などを歴任させていただけたのも、その姿勢が評価されてのことだと思います。
その“攻め”の姿勢は今も基本的に変わっていませんね(笑)
定年退職を迎えた今、こうして自叙伝をしたためているのもその一つです。
新しいことが成功するか失敗するか、そんなことは分かりません。
ただやってみなくては何も始まりません。
まずは動くことだと思います。動いていれば自然にまた新しいものに出逢えますからね。
中小企業診断士の資格にしても、実は最初から狙っていったわけではありません。
三井リース事業で40歳を迎えた時に、ふと仕事以外の勉強がしたくなって、信教育添削を受講したのがそもそもの始まりです。
送り続けた答案・論文などにより、たまたま文部大臣賞に選ばれ、東京の大ホテルでの授賞式へ家族連れで招待されたのです。
そして、居合わせた他の受賞者がそのまま資格も挑戦するよ、という話を耳にして、「これは自分だけ取らないわけにはいかんぞ」と(笑)
生来、変化を好む気質なのかもしれません。
家内が占い師に診てもらったところによると、私は少し変人じみた星の下に生まれているそうです(笑)
どうしても触れておきたいこと
最終回と言うことですが、最後に触れておきたいことがあります。
私という人間をずっと支えてくれた両親と妻、それに2人の息子についてです。
私は猛烈サラリーマンとして一心不乱に働いてきました。時代もそういう時代でした。
大学を卒業と同時に北陸を離れた私は、わずか1年後に結婚し、すぐ2人の息子にも恵まれましたが、家族のつながりを顧みることは少なかったと思います。
一週間開催された「稲葉時雄日本画展」
しかし、そのつながりは決して消えるものではないようです。
47歳で三井リース事業東京本社の部長に就任した辺りから、親への感謝の気持ちが強くなり、電話を掛けることが頻繁になったのを覚えています。
正月に両親と箱根の温泉で過ごし、箱根マラソンの応援や皇居での一般参賀に足を運んだこともありました。
戦後間もないころから画家の道を歩んできた父が「一度銀座で個展を開けたらなー」とニッコリつぶやいたのを見て、親の笑顔は何といいものだ!と思い、早速父の個展を企画。
それから一年後の1997年8月に画廊「越後屋 美術サロン」で個展が実現した時には、遠方からも多くの方々が駆けつけてくださり、
父の作品解説のおかげでしょうか大勢の方からお買い上げいただきました。
ほんとうにうれしそうな父の笑顔が、昨日のように思い出されます。
絵画をバックに家族で記念撮影。父の笑顔がうれしかった
あれから9年という月日が経っていますが、今もなお元気な両親には感謝の念が募るばかりです。
大学卒業1年後に一緒になった妻は、私がどんな状況で有ろうと、動ぜずついてきてくれました。
そして、この年になってもいつも明るい笑い声で会話も絶えることはありません。
息子たちは、それぞれの世界で立派に活躍しています。
プライベートではニ人とも父として明るい家庭を築き、正面から子供と向き合い、ふれあいを大切にしながら家族愛をはぐくんでいます。
あまり多くを語らず、背中を見せて・・・という私の育て方とは違うようです。
反面教師になって、よかった(笑)
最高の妻、最高の息子たちよ、ありがとう!
家族のお蔭で、ためらうことなく第二のステージを歩みだせることに無上の喜びを感じています。
(了)